午後四時三十二分に人がいない部屋のカーテンが揺れた。
窓の鍵は閉ざされている。無人の家だ。
その家に向かい、一人の少年が歩いている。紫黒の髪を丸く切りそろえていて、光の加減で色の変わる目は先ほどカーテンが揺れた部屋を見上げていた。明るい翠色のブレザーを着ているので、中学生といったところだろう。高校生にしては小柄だ。
少年、御城蓮夜は鍵を取り出して鍵穴に差し入れる。開く手応えはなかった。
すでに開いていた。
しかし、家族は仕事などに出ているはずだ。蓮夜は首を傾げながらも家の中に入った。明かりは付いている。
「父さん、母さん?」
玄関で声を上げる。視線を下に移せば、見覚えのない靴が二つ並んでいた。革靴と白いパンプスだ。
眉を寄せてから、蓮夜は外に出るためにドアノブに手をかける。押しても、引いても動く気配はない。
異常な気配が明確に漂っていた。家の空気が普段通りだから、一層に奇妙だ。
蓮夜は外に出られないことを確かめると、三和土に靴を置いて家に上がる。廊下を歩いてダイニングキッチンに向かった。
キッチンには長い藍色の髪の女性がいた。
「あら。蓮夜君、おかえりなさい」
「た、だいま」
女性は和やかな様子で出迎えの言葉を口にしたと思えば、手にしていた紅茶の缶をシンクの横に置く。
そうして、蓮夜の前に立つ。女性は長身だった。
「あのね、今日は蓮夜君に紹介したい人がいるの」
「え?」
「私の部屋にいるから、ご挨拶してきてくれる?」
答える前に肩に手を置かれる。冷蔵庫のうっすらとした冷気に通じる温もりのなさがあった。否定の言葉を口にするとその手が上に動き、首筋にまとわりつきそうだったため、蓮夜は頷く。
女性は手を離した。
「よろしくね。私は後から紅茶を持っていくから」
背を向けた女性は紅茶を淹れるのに集中するようだった。蓮夜は鞄を脇に抱えながら、二階へと上がっていく。階段を昇るごとに体が重くなっていくようだ。
二階には部屋が四つある。蓮夜は左手側にある自分の部屋の扉を開けようとするが、当然のごとく沈黙を保ったままだ。
仕方なく、普段は使われていない右手側の部屋を蓮夜はノックする。
「やあ。待っていたよ」
引き返したい。
声を聞くだけで強く蓮夜は思ってしまう、その気持ちをどうにかこらえながら、扉を開けた。
そこは薄桃と水色に彩られた愛らしい部屋になっていた。右端のベッドに青年が腰掛けている。机に備え付けられている椅子に座ればいいのに、と蓮夜は思ったが言わない。
部屋に入る。色素の薄い青年は楽しいことが起きるこれからを期待しているように、にこにこと笑っていた。
蓮夜は扉の近くに立ったまま、青年に問いかける。
「この状況は、なんだ」
「君にとって大切なお姉さんと、その恋人にご挨拶するだけだよ。ほら。座りなよ」
椅子の上に乗せられていたクッションが投げられる。蓮夜はその上に膝を立てて座った。
「大事なことを言ってもいいか」
「どうぞ」
「俺には姉なんていないよ」
あの女性も、目の前の不穏の仲間なのだろう。二体が揃ってこの家に入り込み、何事かを企んでいる。それもただの泥棒や強盗といったことではないようだ。
青年は笑う。軽やかに、楽しそうに、同時に低い声で笑い声を響かせた。その声に同調するように姿が変わっていく。
青年は異形に転じる。中心に青白く光る核を持った、緑色のゲル状の生物が人型を摸倣している。その気持ち悪さは、巨大化したアオミドロが迫ってくると例えたら、近い。
異形はずるりと蓮夜に向かって手を伸ばしながら、一秒ごとに近づいてくる。漂う粘気がおぞましい。
だけれど、蓮夜は床に爪を立てて逃げるのをこらえた。異形は、ずるり、じゅるとローテーブルを越えて目の前に迫りかける。
目の中に異形の腕の尖端が突きつけられた時、階段を上がる音が聞こえてきた。それと同時に異形はするりと人の形に戻る。扉が開かれる。
入ってきたのはキッチンにいた女性だった。
「待たせてごめんなさい。はい、お茶よ」
女性は入ってくると、ローテーブルの上に紅茶の入ったカップを三つ置いていった。そうして蓮夜と青年の間に座る。
この女性がいる間は、先ほどの異形にはなれない。
蓮夜はその予想を立てた。だとしたら、できるだけ女性を引き留めなくてはならない。
「あの」
「なあに、蓮夜君」
「あなたの名前は何ですか?」
必死な問いにも、女性はきょとんとした顔になって微笑する。
「もう、お姉ちゃんの名前をわすれちゃったの? 小春よ」
「名字は?」
「舞戸小春よ」
自分とは名字が違う。そのことを指摘する前に割り込まれた。
「小春さん。紅茶も美味しいけれど、お菓子とかないかな。図々しくて悪いけれど、おなかが空いていてね」
「そうね。取ってくるわ」
「あ」
呼び止める隙間もなく、小春は部屋から出ていってしまう。蓮夜も出て行こうと立ち上がるが、目の前にきらりと反射するものがあって、足が止まる。
それは細い糸だった。試しに触れると指先に熱が走る。熱い。それから血が、球になって指先から浮き上がる。
青年の姿のままの異形は言う。
「逃げるのはやめた方がいいよ。君は、ここから出られないようにしたから」
「そうだな!」
またクッションの上に座りながら、蓮夜は青年を見上げる。すかした笑みが憎らしい。
いまもあの異形と一緒にいるだと理解すると頭がはち切れそうになるので、現状を崩さないように心がける。またあの姿になられたらたまらない。
これから、どうすべきか。すぐに命を奪わないということは理由があるはずだ。第三者がいた方が都合のよい理由が。
いまだ笑顔を浮かべたまま行動しない相手に、蓮夜は話しかける。
「あんたは何だ」
「名前は名乗れないよ。正体がばれたら、すぐに捕まってしまうからね」
一つ情報を得た。名前はやはり、この異形であっても縛るのに有効らしい。ただ、名前を知っても蓮夜にはどうにかする手段はない。
蓮夜はただの中学生だ。
「ねえ、れんやくん。僕はあの女性に悟られずにここから逃げたいだけだから、そのために協力してくれない?」
思いがけず交渉を持ちかけられた。蓮夜は細く息を吸う。
「何をすればいいんだ?」
「簡単だよ。小春さんの気を逸らせてくれたらいいんだ」
「どうやって、どれだけの時間を稼げばいい?」
話に乗られたことが意外だったのか、異形は短く笑うと顎に手を当てる。
異形の説明によると、異形は小春に倒されるところだった。争いの隙に異形は蓮夜の家に逃げ込んで、小春に術をかけたのだという。小春はこの家の住人で、異形とは恋人の関係にあるという洗脳だ。
それは互いにとっておぞましいものなのだろう。異形の口調にも嫌悪の響きがある。
話は戻る。洗脳が解けたら、小春はまた異形に襲いかかるはずだ。そうなる前に蓮夜が小春の意識をそらし、その隙に異形はどこかへ逃げてしまいたいのだという。
すでに入り口は謎の糸によって閉鎖されている。いまの蓮夜に異形の提案を拒否するという選択肢は許されていなかった。
業腹だったが、蓮夜は承諾した。
「うん。賢明だね。これを渡すから、家のどこかに隠してもらいたいんだ。そして、それを見つけた振りをする」
異形から渡されたのは太く手の平ほどもある針だった。それを針と呼べるのかは、不明だが。
「君がこの針を見つけたら、小春さんを刺して。それを合図に僕は出ていく。あとはまあ、ご自由に?」
にたりと笑われた。パステルの部屋にそぐわない粘着質な悪意だった。
それでも蓮夜は頷くしかなく、針を手にして部屋を出ようとする。その前に窓を見た。まだ、閉じられている。
「糸はまだあるのか?」
「ああ、解除しておこう。君が出たら、すぐに戻すから、ここにはもう入れないよ」
それは小春も侵入させないことを意味していた。
蓮夜が足を踏み出すと、今度は糸が絡みつくことはなかった。廊下は相変わらず重苦しい雰囲気が漂っているが、先ほどの異形と二人きりに比べたらましだ。
蓮夜は階段を下りていく。それから、小春に気付かれないように一階に下りて、書斎に入っていった。異形は適当なところに隠してから、見つけて、小春を刺したら良いと言っていた。それで、この異常な状況は終わるのだろう。
あの異形に人間を襲う意図がないのだとしたら。
蓮夜は針を、自分の手の甲に突き刺した。躊躇はあったが、すぐに消した。
「が、あぁぁあ!」
痛みが痺れるように全身を走っていく。意識を失わないように壁にもたれかかり、何度も針を左右に動かす。痛みはなれない限りは覚醒の役に立ってくれた。それでも、皮膚を貫いて針が動き回る感触は怖気が立つ。
「蓮夜君!?」
叫び声が聞こえてきたのか、小春が走ってきた。
ここまでは良い。ここまでは、成功だ。あとは小春に賭けるしかない。
「小春、さん。もうすぐ、化け物がやってくる! 青緑色をした化物だ!」
手を動かすのを止めないまま、蓮夜が叫ぶ。同時にぞるぞると音を立てて近づいてくる気配がした。
異形だ。すでに人の形を取ることを諦めたのか、あのアオミドロみたいなゲル状の物体のまま床を滑ってくる。細胞核によく似た、黄色い球が怒りを表すように明滅していた。
襲いかかろうとした、一瞬前だ。
小春は蓮夜の手の甲から針を抜く。あまりの痛みは、叫ぶことすら許さなかった。
針は小春の手の中で一振りの錫杖となる。銀の輝きが眩しい杖は、即座に異形の中心にある、黄色い球を貫いた。
空間が揺れる。青緑のゲル状の異形は、長い断末魔を残して徐々に渇き、崩れていった。風もないのに塵となって消えていく。
その様子を小春は酷薄な瞳で見下ろしていた。
結論から言えば、家は御城家のものへと戻った。
小春は蓮夜の手の甲を手当てして、あの異形のいた部屋でゆっくりくつろいでいる。まだ部屋は可愛らしいままだ。
「ごめんなさいね。巻き込んでしまって」
「びっくりしましたよ。なんで、俺の家だったんですか」
「それは当然よ。一番不浄に対する備えがされていたから。だから、あの『不穏』と呼ばれる青崩しをここに追い込んだのだけれど、まさか洗脳されてしまうなんてね。私もまだまだみたい」
呑気に言われるが、被害に遭った身としてはたまったものではなかった。
蓮夜は痛む左手ではなく、右手で冷めた紅茶を飲む。
「で、もう帰るんですか?」
「うん。必要な処理をしてからね。蓮夜君。あなたも、これから不穏と遭遇するのを避けられなくなったわ」
「なんで!?」
いきなりの宣言に困惑する。また、先ほどの「青崩し」といった異形と関わるなど冗談ではない。
それに対して小春はのんびりとしていた。嬉しそう、ですらある。蓮夜を巻き込むことができたのは結果的に成功だとも言いたそうだ。
「不穏にもう存在を知られてしまったからね。これから、おいしいご飯として狙われるようになるわよ。大丈夫、対処は考えているから!」
全く大丈夫な気がしなかった。
「まずは、蓮夜君自身を強くしてあげる。もとから、針といった貫通するものや水とは相性が良さそうだから。抵抗の方法は私が教えていくわね。もう一つは」
小春は蓮夜の隣に移動する。その動きを眺めていると、小春は蓮夜の心臓に手を当てた。
「目を閉じて」
言われるがままに瞼を下ろす。
「九十九の神よ、その一端に触れし存在に僅かながらの慈悲を乞う。彼の者に与えたまえ、仮初めの命を」
かっと胸が熱くなった。針を刺した時の痛みとは違う、熱が蓮夜の全身に広がっていく。
小春の手の平が離された。顔の横で両指を絡めて、にっこりと笑う。
「はい! これで蓮夜君は、不穏に対して九十九の残機を手に入れました。不穏に関することなら、九十八回までは死ねるから、不穏を全て殺る気でこれからがんばろうね」
この時の蓮夜にわかったことは、三つだけだった。
一つはこのろくでもなくマイペースな女性と縁ができたこと。
もう一つは、自分はこれからあの「不穏」と呼ばれる異形たちと戦わなくてはならないこと。
最後に、死因は限定されてはいるが、自分は九十八回までなら死ねるようになった。