にくにくしくあれ(サンプル小説)

 人よ、時にはにくにくしくあれ。
 黒い壁に寄り添う掛け軸には流麗な文字で、許しの心意気がうたわれていた。
 四面を真っ黒な壁が覆うバー「にくにくしく」は名前の通りに、「にくしみ」を取り扱っている。扱うものが繊細であるために、他者と鉢合わせることが無いように気を遣って、予約制となっていた。
 また、バーという名はついているが、昼間から夜の九時まで開店している。深夜営業とにくしみは相性が悪いためだ。
 今日も絹糸という名前であるにくにくしくの主は、開店前の最終確認を行っていた。
「飲み物よーし。グラスよーし。おつまみよーし。お店は綺麗。うむ。文句なし」
 満足げに頷いた時には、すでに時刻は午前十一時となっていた。一日の半分が終わりに近づいている、どことなく物憂げな時間帯だ。
 そうしてにくにくしくの鐘が鳴る。本日最初のお客様だ。
「マスター! 聞いてよぅ!」
「聞くから。席に座って、飲み物を選んで」
 姿よりも先に飛び込んできた声に対して、絹糸は冷静に言葉を返した。
 クリーム色のサマーニットに緑色のパンツという格好の女性は秋山十という。
 十は右端にある「予約席」と札が置かれている席に座った。真横を向くと天に召されていく兎たちの絵が飾られている。
 メニュー表を開くことはなく、十はコーラとナッツの盛り合わせを注文した。
「お酒でもいいだろうに」
「合法的に酔いたい時はコーラなの。ただでさえ、人間ドックで炭酸は控えてくださいと言われているのだから」
 普段は禁止しているために、この店でのお楽しみにしているようだった。
 絹糸は冷蔵庫に入れている赤いコーラの缶を開けて、背の高いグラスに注いでいく。泡が溢れないようにゆっくりと時間をかけて丁寧に行う。
 十の前に紙のコースターを置いて、その上にコーラの注がれたグラスを置いた。
 準備は終わる。
「それで、今日もアレなのかい?」
「今日もアレですよ」
 自棄を押しとどめた様子で答えてから、十はコーラに口をつける。二度ほど喉を鳴らしてから、コースターの上にグラスを戻した。
 十は長年の友人に縁を切られたばかりだった。
 そのことを、すでに二ヶ月は引きずっている。
「表立った痛みは引いたけれど、たまに思い出すとすごくいらいらしちゃう。なんだかんだ、自分のために相手を切り捨てることを正当化するんだから」
「まあ、縁切りは自分を守るためにすることだからね」
「私の辛さが切り捨てられる程度だなんて思わないでいて欲しかった」
 その辺りのコメントは差し控えた。
 にくにくしくでは、反応するべきところと傾聴すべきところが分かれている。判断を誤ると客からの信頼は一気に失われるため、どこまで慎重になっても足りないところだ。
 十はピーナッツを二粒かじる。その後にコーラで流し込んでいた。だんっと、強くグラスを置く。
「自分だけ悲劇のヒロインを気取っているのが腹立つ? 何よそれ。じゃあ、同じ目に遭ってみてよっていうのよ」
「他人の痛みよりも、痛みに対するみっともなさが印象深くなるものだからね」
「はー。つら」
 わずかに残った意地なのか、十はカウンターに身を預けることはしなかった。肘をついたまま今度はカシューナッツをぽりぽりと食べる。
 にくにくしくでは落ち着いた異国の歌が打楽器と共に、流れていた。言葉がわからない歌は良い。感情が言葉につられずに、音楽と共に濾過されていく。
「おかわりはいる?」
「いるー」
 絹糸はグラスを取り替えた。またも、コーラだ。
「憎しみ度数は最初の頃より下がっているよ」
「でしょうね。憎しみは減るものよ。だけど、その次に痛みがやってくる。一生治らない、刃こぼれした刃物で削り取られたような痛み。治るのかな」
「治らないだろうね」
 優しい声だが、断言した。嘘を吐いても仕方が無い。
「人の頭は都合の良いものだけれど。忘れることができるだけで、痛みは消えないんだ」
 十は緩慢な様子でくるみを指で挟む。口には運ばない。回していた。
 いまの言葉は事実ではあるが、深いところに刺さった様子が見受けられる。にくしみを抱えている人には残酷な言葉であっただろう。
 だけれども、裏切られたと認識された痛みは、決して完治しない。
「憎しみはどれだけ薄まっても、心の底ではうごめくものさ。だからこそ、反省もできるんだ」
 店内に流れる歌もまた、高らかに伸びている。十は違う。「なら、どうしたらいいんだ」と心が訴えかけてきている。
「存分にここでは憎めばいいよ。外では、私はいかにも呑気ですって明るく振る舞わないといけないんだから」
「でも、こんな感情にしがみつくのはいやだよ。私は前を向きたいのに」
「いまはうつむいて、石を蹴り続けていても。その自分を見つめ続けていたら、いつかは前を向いていけるよ」
 十は顔を上げた。目には僅かながらの希望があり、絹糸は笑う。
「縁を切った、切られたという関係になった時点で、その相手はもう終わったんだよ。こっちの人生にとっては」
 場合によっては復縁することもなくはないが、それは血縁であったりして、どうしても完全に離縁できない場合だろう。友人であったり、仕事の同僚という関係であったのなら、切った相手は振り向かずに先を行ってしまうはずだ。
 すがりついても仕方ない。相手はもう、死人と同じだ。
「相手も切った痛みは抱えているだろうし。もし何も痛痒を感じていないのなら、それは相手にしても仕方が無い。ただ、憎しみや痛みを抱えてる時点で、こっちはまだ上等なものになれるもんだよ」
「切り捨てた方が賢そうなのに?」
 自身を守るという理由で、相手から離れる選択をするのも大事だろう。だけれど、切り捨てた相手には思いもよらないこともある。
「誰かを切った相手は一生、その相手を見下げているだろう。こんなひどいことをした、と親しい誰かに愚痴るのかもしれない。だけれど、見下げられた相手だって、全てが愚かなわけではないし。少しずつ良いものに変わっていける可能性はいつだって残っている。苦しくて辛いけど、良くなるしかない。そうしたら、別の誰かも振り向くだろうさ」
 変わらない人は変わらない。それも確かだ。
 だけれど、変わっていく人は川で石が磨かれるように、丸くなっていく。
 全員が変わらないわけではない。そのことを知らないまま、相手を見下げ続けるのも一つの傲慢だ。
「マスターはもう、誰も恨んでいないの?」
「いまのところは平和だからね」
 十はグラスを指でなぜた。
「相手にとって、私が悪かったから切られたのなんてこと、もう十分にわかっているんだよ」
「うん。それだけで立派だ。自分を切った相手を暴力だと決めつけないで、慮る。そこまでできたなら、あとは放っておこう。それでも気になるもんだけどさ」
 十はようやく、にくにくしくに来て今日初めての笑顔を見せた。
「さてと、お会計しようかな」
「はいよ」
 絹糸が十の隣に領収書とトレイを置く。他には背の低い瓶とざらりとした青い球が入っている皿も並べた。
 十はトレイに請求された金額を置き、瓶には青い球を一つずつ落としていく。球は、憎しみを表しているものだ。
「ここって、憎しみが無いときも来ていいのかな」
「ああ。美味しいバーと思って是非おいで」
 九粒の球が入った瓶を受け取って、絹糸は笑う。
 その笑顔に見送られて、十はバーの外へと出ていった。夏の日差しが扉の隙間から差し込み、また閉ざされる。
 絹糸は次の来客に備えて片付けをする。皿を流しに置くために手を動かしながら、考えていた。
「相手を切ったとか切らないとか。いつから了見の狭いことになったのだろうね」
 自分のわがままで切る場合もあるだろうに、そういった相手は平気な顔をして「あれはもう変わらないから」などと自身のひずんだ正義を押し通すのだ。
 嫌なことがある。それは仕方ない。だからといって、その嫌なことから完全に逃れられるわけではないというのに。
 どうしても、相手を悪にしたいのならば、己がにくにくしくあれば良い。
「ま、完全に相手が悪い場合もあるけど。でもさ、それでも永遠に反省しない人なんて決めつけはするなよ。人は変わる。いつか変わる。弱い人ほど、よりよき方向に」
 たとえ楽観的と言われようとも。信じていたい。
 絹糸は見上げた。
 人よ、時にはにくにくしくあれ。


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    この記事を書いた人

    狐と猫とハシビロコウを愛してやまない文筆家です。
    好きなものに素直に、何事にも好奇心が旺盛ですが計画はきちんと立てるタイプです。
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